集会祈願
🌸 第一朗読 (ゼフャニヤ2:3、3:12-13)
ゼフャニヤの預言
3主を求めよ。
主の裁きを行い、苦しみに耐えてきた
この地のすべての人々よ
恵みの業を求めよ、苦しみに耐えることを求めよ。
主の怒りの日に
あるいは、身を守られるであろう。
12わたしはお前の中に
苦しめられ、卑しめられた民を残す。
彼らは主の名を避け所とする。
13イスラエルの残りの者は
不正を行わず、偽りを語らない。
その口に、欺く舌は見いだされない。
彼らは養われて憩い
彼らを脅かす者はない。
🌸 答唱詩編 詩編146 典19 ①③④
🌸 第二朗読 (一コリント1:26-31)
使徒パウロのコリントの教会への手紙
26兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。 27ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。 28また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。 29それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。 30神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。 31「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
アレルヤ唱 典271(4A)
🌸 福音朗読 (マタイ5:1-12a)
マタイによる福音
1イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 2そこで、イエスは口を開き、教えられた。
3「心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
4悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
5柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
6義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
7憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。
8心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
9平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
10義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
11わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 12喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。
奉納祈願
拝領祈願
🌸 分かち合い
厳しい寒さが続いていますが、早いところでは、春を告げる梅の花が咲いているのではないでしょうか。今日は1月最後の日曜日、来月の終わりに始まる四旬節までの間、イエスの公生活の始まりを記すマタイ5章、山上の説教から読まれます。
今日の箇所は、いわば、イエスの「施政方針演説」のような、教えの根本をあらわす有名な言葉です。「幸い」という言葉は、旧約聖書の詩編や預言書等にもたびたび出る言葉で、聞く人々にとって、なじみ深い言葉だったはずです。イエスのもとに集まって来た群衆、その中には、当然弟子たちがいたでしょうが、彼らはそれをどのように受け取ったでしょうか。
旧約聖書の中で「幸い」と言われるのは、掟を守り、神に従い、正しく生きる人のことでした。その人たちは、神の祝福を受け、豊かな生活に恵まれ、子々孫々まで見ることができる、と教えられていました。時代が下ると、
ヨブ記のように、そうした伝統的な考えに疑問をもつ人もいましたが、庶民の間に根強くあったのは、正しい人が祝福され、悪い人が不幸になる、という考えだったのでしょう。
イエスが、人々の前で、「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」、と言われたとき、人々ははたして、すんなり、それを受け止められたでしょうか。当時の人々の常識に反し、まさに、それを覆すような言葉に人々は戸惑ったのではないでしょうか。さらに、「悲しむ人々は幸いである」、「義に飢え渇く人は幸いである。」と続いて人々はどう思ったでしょうか。自分自身、高校生のころ、この言葉の意味がわからず、聖堂に長く座って、光を仰いだことを思い出します。この言葉の本当の意味、また味わいを悟るには、長い人生経験、特に、苦しみの経験が必要なのかもしれません。
同じ内容について記すルカは、マタイと違って、「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである」、とストレートに、はっきり言います。イエスから呼ばれた弟子たち、イエスの言葉を聞いた弟子たちは、皆、貧しい人だったと言えないかもしれません。マタイのように、財産を持っていた人もいたでしょう。ペトロのように、漁師でも、網元のような立場にあったものもいたようです。旧約聖書の中で、「貧しい人」(anavim)という言葉は、人々の前で、貧しいものとされる、蔑まれる、打ち砕かれる人を意味します。その意味で、人生の中で、様々な苦しみ、痛み、悩み、悲しみを負って生きる人、人々の前で、誇りとするもの、自慢することのできるものを何一つもたない人、すべてを含む言葉です。マタイが「心の貧しい人」と断っているのは、そのためかもしれません。そのような人こそ、「幸いである」と言われるのです。
しかし、なぜ、そのような人が「幸い」と言われるのでしょうか。今、詐欺事件で話題になっているグループの首謀者がいるとされるフィリピンにかつて出かけたとき、社会の中にある貧富の差に驚かされました。都会の繫栄のかげにあるスラム街に住む人々が、実に明るく、訪ねてくる人々を歓迎してくれることはまさに、驚きそのものでした。日本では、ほとんど見られなくなった文字通り貧しい生活を強いられている人々の顔に浮かぶ笑みがどこから来るのか、不思議でなりませんでした。謎が解けたのは、彼らの生活の中に息づく信仰に気づかされたからです。物ではなく、信仰、神に信頼して生きることからくる平安と喜びが彼らの生活の中心にあることを教えられました。
イエスは決して、知識に富んだラビのように、もっぱら会堂で聖書を講釈するのではなく、貧しい人と同じようなつつましやかな生活をしながら、人々の中に入って、こうした言葉を語られたのです。だからこそ、イエスの言葉には力があったのでしょう。イエスの生き方を見、その振舞を見て、そこに真実があることを見てとったに違いありません。人々の前で、何も誇るものも持たない人々が、イエスの言葉を聞いて、心が動かされ、自分と違う、見た目に優れた美しい、豊かな生活をする人々のようではなく、ありのままの自分でも、それでよい、神がそれをよしとし、祝福される、幸いである、という言葉に納得したのではないでしょうか。
とかく人間にとってマイナスとしか受け取れない、貧しさ、苦しみ、飢え、そうした状況を「幸い」と感じることができるなら、人は「柔和」になることができます。自分の置かれた苦境を、怒りや恨みではなく、静かな心で受け止めること、そして、物事を斜めではなく、まっすぐに受け止める「心の清さ」が与えられ、人に対して「憐れみ深く」なり、そして、「平和を実現する」人にもなるのです。さらには、そのような生き方を不快に思う人、妨げと思う人の「迫害」に耐え、侮辱を忍ぶことが出来るのです。それは、人間の努力の結果ではなく、恵みです。神が開かれた心を持つ者に、無償で与えられる賜物です。
イエスが提唱される「幸い」を、まだ、今、実感できないなら、そのために祈りましょう。そして、自分が何に縛られているか、手放すことが出来ないでいるか、何に挑戦できずにいるか、知る恵みを祈りましょう。真の「幸い」を生きるものとして、福音を伝えることができますように。(S.T.)
第1朗読に留まらず福音、そして分かち合いに進んでよかった!
そして、ありのままを言ってしまえば、分かち合いでS.T師が、高校時代、キリストの霊性そのものの言葉の意味がわからず、光を仰いで聖堂に長く座っていたという、まさに心の貧しい幸いを神の御前で経験していた高校時代に嫉妬してしまった。
でも、恵みって神からのものだから人と比較したら自分の恵みすら失ってしまう。恵みは比較不可能だ。人と比べれば、キリストが言うように、持っているものまでも奪われる。
今、我に返って思えば、神の言葉を胸に聖堂で長時間座って光を仰ぐ姿を想像するだけで恵みを頂ける。嫉妬という人間の目ではなく、神の目で、人の恵みを見れば、自分もその恵みで満たされる。
地元の教会では、日本人ではほとんど見かけないが、フィリピン人やブラジル人がじっと長く祈っている姿に、自分も心が燃えてきて祈りに深く入れたことが何度もあった。
ああ!今日、と言うかもう昨日、は地元でミサはなかったが、29日で車検切れの最後の車走らせてミサに与り、しばらく聖堂で祈っていればよかった。
ここだけの話だが聖堂ほどおもしろいところはない。とにかく長時間いれば色んな人が色んな状態で来る。
困った時の神頼み!
困った!困った!の連続こそが至福だ。
貧しい人は幸い!
むしろ嫉妬したのは、高校生で自覚的にイエスと出会い、しかも自覚的にしっかり時間をとってイエスと向き合っていること。
僕は高校時代、文字通り総理の施政方針演説に向き合ってしまっていた。
まず第一朗読に大いに励まさる。
中途半端に出かけず自宅に留まってよかった。
神以外に救いはないから。
むしろ嫉妬したのは、高校生で自覚的にイエスと出会い、しかも自覚的にしっかり時間をとってイエスと向き合っていること。
僕は高校時代、文字通り総理の施政方針演説に向き合ってしまっていた。
とはいえ、一人で神を求めても神モドキか神ガカリになってしまう。